「遺伝子・健康・社会」検討委員会

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母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査

拡がる遺伝子検査市場への重大な懸念表明
(会見資料)

2012年3月1日
日本医学会臨床部会運営委員会
「遺伝子・健康・社会」検討委員会

註)本表明における「一般市民を対象とした遺伝子検査」とは、疾病易罹患性検査など、健康管理や医療上の意思決定に直接関係する可能性のある遺伝子の変化を調べる遺伝子検査のほか、個人の能力や性格等にかかわる遺伝子を調べると称される遺伝子検査、ないし血縁関係を調べたり個人同定を行うDNA鑑定を対象とする。この中には、医療機関を介さず直接消費者に提供される遺伝子検査や、遺伝医学の専門家ではない医師・医療関係者から医療機関や人間ドック等における健診や予防医療の名目等で提供される遺伝子検査が含まれる。なお、医療の場で、病気の確定診断・鑑別診断として実施される遺伝学的検査や、総合的な臨床遺伝診療の場で実施される遺伝学的検査[注1]は、これに含まない。

はじめに

 ヒトゲノム・遺伝子解析研究の進展により、多くの単一遺伝子疾患の責任遺伝子の同定がなされるだけではなく、多因子疾患の遺伝要因の解明も急速に進められており、個々人の遺伝的背景に基づいて最適な医療を提供する個別化医療(オーダーメイド医療、テーラーメイド医療)の実施も現実のものになろうとしている。
 一方、個人の遺伝情報を明らかにする遺伝学的検査に用いられるDNAは、採血等の医療行為によらずとも、毛髪、爪、頬粘膜等の採取により容易に得られ、また、遺伝子検査や解析を国内企業にとどまらず外国企業にも容易に委託することが可能であるため、学術団体等で遺伝医学の専門家として認定された医師等を介さずに、易罹患性に関わる遺伝子検査を直接消費者に提供する企業や来院者に提供するクリニックが散見されるようになった。また、提供可能とされている遺伝子検査は、病気のなりやすさ(生活習慣病の易罹患性)や体質(肥満、薄毛など)など健康・容姿に関わるものに留まらず、個人の能力(知能、文系・理系、音感)、性格(外向的、内向的)、進路(音楽、美術、運動適性)、さらにDNA鑑定(血縁鑑定、個人同定)などの非医療分野にまで広がりを見せ、企業のホームページでの過大な広告やマスメディアでも広く取り上げられるようになったため、一般市民にも広く知られるところとなっている。
 しかしながら、現在、一般市民に提供されている体質遺伝子検査の多くは、個人の体質を確実に表すもの、あるいはある疾患を発症するかどうかについて明確な答えを与えるものではなく、専門家にとってはその検査の意義さえ疑問視されるものである。さらに、現状ではその遺伝子検査により得られる結果の解釈や有用性が科学的に確認されていないにもかかわらず、遺伝子検査の広告宣伝活動を通じて、あたかも疾患の発症、体質、能力、性格、進路適性等を確実に予測でき、有用であるかのように誤解を与えている場合も少なくない。また、従来は司法手続きを介して実施されていた血縁関係の有無の証明を、私的に委託出来るDNA鑑定事業者が多数出現してきており、中には法的、倫理的に問題を無しとしない事案が散見されるようにもなってきている。
 また、検査受託者の義務として、個人の遺伝情報を扱う際には匿名化等を適切に行い、個人情報や個人の遺伝情報の保護に努めるとともに、その情報に接する者に対する守秘に関する教育を十分行うことが必要であるが、遺伝子検査を提供する企業やクリニックにおいて、どのように個人遺伝情報保護のための対策(組織的・人的・物理的・技術的安全管理措置)が講じられているかについてはガラス張りになっていない。
 以上のことから、現在行われている「一般市民を対象とした遺伝子検査」には、生体試料をあずけ、個人の遺伝情報が明らかにされる一般市民に対して、科学的側面から見て、また倫理的社会的法的側面から見て不利益を与えてしまう可能性が考えられる。

懸念表明

 そこで、当委員会は国および広く国民へ向け以下の懸念表明を行なう。

1.遺伝子検査を実施する際の必要条件について
   一つの遺伝子型が、多因子疾患の易罹患性に対してどのように寄与しているかを確かめるには、様々な集団を対象として、病気の発症の状況を確認するための長期的な研究等を通じた丁寧な検証が欠かせない[注2]。
  科学論文等で報告された結果が遺伝子検査として提供されるようになるためには、遺伝子検査の分析的妥当性、臨床的妥当性、臨床的有用性[注3]などの科学的根拠や倫理的法的社会的問題の影響等が専門家によって検証され、遺伝子検査サービスとして実施する意義が確認されていることが国際的なルールとなっている。以上のことから、遺伝子検査を提供する事業者は、検査を希望する消費者に対して、遺伝子検査の科学的根拠についての説明責任があることを十分認識する必要がある。 また、提供する遺伝子検査が依拠する論文等が、その後の研究により結果が否定されたり、再現性が得られない等の報告が無いか、最新の研究動向を常に評価するとともに、これら情報を適切に消費者に伝える必要がある。

2.遺伝子検査の提供体制について
  遺伝子検査の結果の解釈は極めて複雑であり、一般市民がその科学的根拠を理解すること、および検査結果を十分に理解し、正確に解釈することは非常に困難である。そこで、遺伝子検査を提供する際には、遺伝子検査の科学的根拠、結果解釈およびそれらの限界について、正確な情報をわかりやすく消費者に伝え、不安や疑問に応えることのできる体制を整備しておく必要がある。
 また、遺伝子検査や解析の提供に際しては、検体の品質管理や検査の精度保証等に関する質的保証が適切になされていること、および遺伝子検査に使用された後の試料等が適切に処理されていることは必須であり、消費者にこの点について十分な情報提供がなされるべきである。さらに、事業者内において、遺伝子検査の結果がどのように取扱われているのかについても消費者に十分な情報提供を行なう必要がある。すなわち、遺伝情報はその個人に固有のものとして、血縁者間で共有し、子孫に伝えられるという特徴があり、慎重に取り扱われなければならない。このため、遺伝子検査を提供する事業者は、個人情報とともに、遺伝子検査により明らかにされた個人遺伝情報を適切に保護する必要があり、消費者に対しては個人遺伝情報の保護の方法についての説明責任がある。わが国においては、個人情報保護法に基づき、「経済産業分野のうち個人遺伝情報を用いる事業者における個人情報保護ガイドライン」(経済産業省)に従った取扱いが求められている。

3.子ども(未成年者)を対象とした遺伝子検査について
  未成年の子どもを対象にした能力、性格、進路適性に関わるとされる遺伝子検査などについては、子どもの人権保護や差別防止といった観点から十分な考慮が必要である。遺伝医学にかかわる学術団体は、2003年に「遺伝学的検査に関するガイドライン」を10団体共同で策定し、子ども(未成年者)を対象とした遺伝子検査について、「将来の自由意思の保護という観点から、未成年者に対する遺伝学的検査は、検査結果により直ちに治療・予防措置が可能な場合や緊急を要する場合を除き、本人が成人に達するまで保留するべきである」と定めている。そのため、本委員会としても、子ども(未成年者)を対象とした遺伝子検査の安易な実施については憂慮するところである。

4.DNA鑑定について
本件に関わる殆どの業者は、鑑定対象者全員の同意をとる、インフォームドコンセント・検体採取時は立会人が立ち会う、などと謳っているが、一方で体毛(毛根)、歯ブラシ、使用済みカミソリ、体液の染みついた衣類・布、タバコの吸い殻(フィルター)、チューインガム、使用済みのコンドームや生理用品、なめてのり付けした封筒などといった特殊サンプルを受け付ける業者もあり、一部には、推定される対象者不詳のこれらサンプルを捜査権のない一般市民より受け付け、司法警察が犯罪捜査の際に実施する遺留物からの個人同定と同じDNA法医学検査を有償受託する業者もある。
また、出生前親子鑑定を有償提供する業者が複数認められるが、当該事業は受検者の自然流産のリスクや、鑑定結果により人工妊娠中絶選択に繋がる可能性も類推されるため、日本医学会分科会である社団法人 日本産科婦人科学会より平成18年12月7日付で、同学会会員の産科医向けに「法的措置の場合を除き、出生前親子鑑定など医療目的でない遺伝子解析・検査のために、羊水穿刺など侵襲的医療行為を行わない。」という遵守要望が告知されている。しかし、未だに出生前親子鑑定を実施する複数の業者ないし、やる・やらないを表明せず連絡先をのみ提示する業者もあり、医学界からの提言等では限界があることが明らかになっている。

  以上、これら遺伝子検査については、現在日本では法的規制がなく、行政の総合的で踏み込んだ対応も行われていないため、消費者自身がその検査の信憑性、および検査を受けた場合のリスク等について判断しなければならない状況にある。

提言

 以上の懸念表明をもとに、日本医学会「遺伝子・健康・社会」検討委員会は以下の提言を行なう。

1. 一般市民を対象とした遺伝子検査においては、その依頼から結果解釈までのプロセスに、学術団体等で遺伝医学あるいは当該疾患の専門家として認定された医師等(臨床遺伝専門医等)が関与すべきである。

2. 不適切な遺伝子検査の実施によって消費者が不利益を受けないように、関係者は、関連する科学者コミュニティと連携を図り、ヒトゲノム・遺伝子解析研究の最新の進行状況についての情報を得るとともに、遺伝子解析の意義、有用性、およびその限界に関する科学的な検証を継続的に行うべきである。

3. 国と医学界は、あらゆる機会を通じて、一般市民、学校教育関係者、マスメディアに対し、ヒトゲノム解析研究の成果や今後急速に市民生活の様々な分野で拡がりを見せるであろう遺伝子検査がもたらす意味について、積極的に教育・啓発活動を行ない、遺伝子検査に関する一般市民の理解が促進されるように努力すべきである。

4. 市場が拡大しつつある一般市民に提供される遺伝子検査事業の質的な保証や提供体制について、既に諸外国で行われている規制法の制定、公的機関による継続的な監督システム、専門家を中心とした第三者検証機関の設立、一般市民を巻き込んだ議論の場を設ける等の取り組みが、わが国ではほとんど行われていない状況に鑑み、今後速やかに、国による遺伝子検査を監視・監督する体制の確立を早急に検討すべきであり、その実現を強く求めていくものである。

5. 日本医学会としては、医療分野・事業分野等領域毎に所掌官庁の異なる多領域にまたがる遺伝子検査を統合的に規制・管理する部署を、一案として消費者庁に設置するという選択肢を示すとともに、その下位組織として各省庁に共通基準で分掌管理させるシステムの構築と立法化を早急に整備されるよう求めるものである。

[注1]「遺伝子検査」と「遺伝学的検査」
生殖細胞系列変異を明らかにする遺伝子解析を、英語では genetic testing と呼び、日本語では「遺伝学的検査」と表記すべきであるが、一般に「遺伝子検査」という用語が広く使われていることから、本見解では、医療の場で行われるものを「遺伝学的検査」、それ以外で行われているものを「遺伝子検査」と表記した。

[注2]遺伝子検査を実施する際の必要条件について
例外として、重篤な薬の副作用に非常に強く関連しているものに関しては、検証を待たず積極的に遺伝子検査を利用する場合がある。

[注3]分析的妥当性、臨床的妥当性、臨床的有用性
分析的妥当性とは検査法が確立しており、再現性の高い結果が得られるなど精度管理が適切に行われていることである。臨床的妥当性とは検査結果の意味付けが十分になされていること、すなわち、感度、特異度、陽性的中率などのデータがそろっていることである。臨床的有用性とは検査の対象となっている疾患、状態についての遺伝子情報が得られることにより、今後の見通しについての情報が得られたり、適切な予防法や治療法に結びつけることができるなど臨床上のメリットがあることである。

参考文献

American Society of Human Genetics (2007)
ASHG Statement on Direct-to-Consumer Genetic Testing in the United States
American Journal of Human Genetics :81. 635-637.

American College of Medical Genetics (2008)
ACMG Statement on Direct-to-Consumer Genetic Testing
http://www.acmg.net//AM/Template.cfm?Section=Home3

European Society of Human Genetics (2010)
Statement of the ESHG on direct-to-consumer genetic testing for health-related purposes
European Journal of Human Genetics (2010), 1-3.

Human Genetics Commission (2007)
More Genes Direct: A report on developments in the availability, marketing and regulation of genetic tests supplied directly to the public
http://www.hgc.gov.uk/UploadDocs/DocPub/Document/More%20Genes%20Direct%20-%20final.pdf

Human Genetics Commission (2010)
A Common Framework of Principles for direct-to-consumer genetic testing services
http://www.hgc.gov.uk/Client/Content.asp?ContentId=816

Human Genetics Society of Australia (2007)
Position Statement on Genetic Testing and Sport Performance
https://www.hgsa.org.au/website/wp-content/uploads/2009/12/2007-PS02.pdf

遺伝医学関連学会 (2003)
「遺伝学的検査に関するガイドライン」
http://www.jscla.com/gaidoline.pdf

日本人類遺伝学会(2008年)
DTC遺伝学的検査に関する見解
http://jshg.jp/dtc/index.html

経済産業省 (2004)
「経済産業分野のうち個人遺伝情報を用いた事業分野における個人情報保護ガイドライン」
http://www.meti.go.jp/feedback/downloadfiles/i41227dj.pdf

特定非営利法人 個人遺伝情報取扱協議会 (2008)
「個人遺伝情報を取扱う企業が遵守すべき自主基準」
http://www.cpigi.or.jp/jisyu/index.html

日本人類遺伝学会(2010年)
「一般市民を対象とした遺伝子検査に関する見解」
http://jshg.jp/news/data/Statement_101029_DTC.pdf